『ラストムービー』の涙

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西部劇から飛び出してきたカウボーイはめくるめく編集に翻弄される。それはゴダール的でもあり『今夜、マリエンバードで』的でもある。デニスホッパーは自身をそういった配置にすることによって、トラブルメイカーな一面を消している。だからこそ彼は現実と虚構の間を駆け回り、涙し、自由に動くことができる。

 

彼が泣き顔から元に戻すときの一連の仕草は本当に凄い。目を見開いたあと、口を大きく開ける。そうすると涙は止まりいつもの顔に戻る。この演技がかっこよすぎるせいで俺はずっと真似をしている。

 

 

『最高殊勲夫人』はもはやバウハウスである。

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最初から山場のプロポーズまで、ひたすらシンメトリーで攻めている。というのも若尾文子の可愛さや茶目っ気、コメディとベタなラブストーリーをシンメトリーで描くことによって際立てており、お陰でカメラワークは固定からの上下左右に動くという獣的な身体性までもたらしている。これは映画が登場人物がビル化するのを防ぐためである。

山場のプロポーズでは直角のテーブルの角を挟んで両側に立ち、言葉を掛け合う。そして片側から射抜き合い、お互いの気持ちを確認する。これまですれ違っていたふたりが初めて対象化するのだ、対称性から解き放たれて。シンメトリーからの解放がラストに訪れる。結婚のシンメトリーだけを残して。


俺の『サウダーヂ』

 

『サウダーヂ』



俺たちが俺たちであること、俺たちが、個々の俺でしかないこと、そして俺たちの間には、思考に隔たりがあるように誰一人として思考が繋がっていないように、隔たりがある。この隔たりは、考えずともわかるほど、当たり前な隔たりであり、だからこそ断絶されている。その断絶には語るべくもの、語られるべくして語られるものがあるが、映画とは、何を語り、何を語らないか、であるためにその断絶はすべてが明らかになるわけではない。その語られなかった断絶こそが、匂いとなり、サウダーヂとして表現される。言葉で表せないこと、例えば、日本人とブラジル人の表層的な違いだとか、日本人とフィリピン人との表層的な違いだとか、はたまた東京と甲府の違いだとか、簡単に表せそうで、表せられないこと、どうしても中心を捉えようとしてもできないことをサウダーヂと呼んでしまうことで、ブラジル人は軽々と乗り越えられてしまう。つまりは、サウダーヂという考えを持つ者と、持たざる者。この映画をこの二種類の人しかいないと考えれば楽かもしれないが、そんな断絶はこの映画には存在しない。誰も誰かがサウダーヂと呼べるものを持っており、それがサウダーヂとは限らない。それがこの映画の断絶なのだ。



「俺、ヒップホップ」


俺たちはまず、俺たちと呼ぶことをやめない。俺たちは俺たちであることをやめない。俺たちは各々が俺であることをやめない。しかし俺たちは一つの俺である。だから、呼吸の集まりだ。呼吸が集まればグルーヴが生まれる。呼吸は言葉で表すことができる。いや、呼吸は言葉に置き換えられる。言葉をグルーヴさせることができる俺たちはクルーだ。音楽を鳴らしている。音楽が鳴っている。俺たちはヒップホップをしている。その場のノリが表現になる。だから俺たちはこれを選択した。だから選択させられたとも言える。その場のノリだから、生活に一番近い。生活に一番近いのが俺たちにとってはヒップホップだった。だから俺たちはこれを選択したと思っていた。しかし俺たちは選択させられていた、生活に、生活とは、その場のノリ、だから俺はヒップホップを選択していた。だから俺はこの選択を悔いたのかもしれない。その場のノリでは、その場をノせることができないことに気づいてしまったから。俺は俺でしかない。俺の生活は、おれの生活でしかない。それは果たしてヒップホップなのだろうか。俺は俺たちであることをやめた。しかし俺は、俺たちと何も変わっていない。




「俺、土方」


タイに行きたいけれど結局行かない。この構図は神代辰巳監督の『アフリカの光』と同じである。行きたい、行きたいと公言して、結局この映画内ではいかない。アフリカに行きたい萩原健一は、アフリカのマグロ漁船がないからという理由で留まっている。しかし、アフリカ行きの船が帰ってきても彼は船に乗らないのだ。ヤクザがらみの理由で乗らせてもらえない、相棒が遠く離れてしまったと言うのもあるが、彼はどうやら何かアフリカ行きの船に乗ることが終着点なのではないか。そこから先のことは考えられない。だからあえて先延ばしにしてしまう。そんな感じがする。それに似たようなものを、このタイに行きたい男に感じる。俺はタイに行きたいが、ぼんやりとした行けない理由のせいで留まっている。俺はフィリピンにもいけない。ああ、仕事もなくなった、何をすればいいのか、そうした不安からどうしたらいいのか分からない。そうだ、女に置き換えよう。このどこにもいけない気分、このどこかを女で埋めてしまおう。俺のサウダーヂとは女なんだ。辿り着いたのは、人との繋がりである。そして、彼らのサウダーヂも結局は人との繋がりだったことに気付く。そうだ、どこにいても誰といても感じるサウダーヂは、人と会うこと、会えないこと、繋がりそのものなんだ。



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赤い鳥逃げたとしても



『赤い鳥逃げた』


俺のけつの穴まで逆再生されたら、それこそ朝、困るじゃないか。原田芳雄がおどけて振る舞えば振る舞うほど、逆再生は繰り返される、執拗に。俺たちは前へすら進めないのだろうか。いや、進んでいるさ。それこそダサい、破滅に近いところまで。

赤い鳥は何処へも逃げていない。自由になってすらいない。全ては巻き戻るかのごとく、不自由に朝に、かえってくる。しかしながら、逆再生に次いで繰り返されるのは爆破である。この年代の映画における爆破は突然の終わりを意味する。笑 そこで終わりなのだ。赤い鳥は逃げていない、爆破による目に見える形で消えた。逃げたのは無軌道な若者の意志のみで、それは赤い鳥ではなく、おもちゃのようなものである。

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SISTERS BROTHERSのゴールデンリバー?

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『THE SISTERS BROTHERS』


「暴力的な前口上」
この映画をゴールデン・リバーと訳すのは危うい感性してんな(可愛い犬の尻だけひたすらに舐める系かな)って思うけれど、そんなこと別にどうでもよくなるくらいの俊作。ゴールデンリバーなんてほんの些細なことじゃないか。しかも画的にも別にゴールデンじゃないし。笑 帰り際にジジイが「くだらん映画やったのお」と抜かしたが、おまえのくだらん人生とこの情緒を理解できない脳みそごとくたばってしまえ、けつの穴だけ置いていけよ。俺のサンドバッグにするから。

「歯ブラシと親殺し」
日本語では韻を踏めるこの組み合わせがブロマンスにおいて成り立つのは偶然ではないだろう。ゴールドラッシュにおけるラッシュは親の存在だ。親がいてのラッシュ。親のためのラッシュ。親がいなくてもラッシュ。親の存在はデカい。この映画はこれまでの西部劇が、ゴールドラッシュ映画が描かなかったゴールドラッシュの在り方を描いている。それは、父親、それは母親、そして父になること、皆の父になること。
ああ、
「歯を磨きなさい」
「清潔にしなさい」
親は言うだろう、いつまで経っても子どもだ。親にとってはどう歳をとっても。


ディザスターアーティストの構造と力

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ディザスター・アーティスト


俺たちが把握することには、限りがあり、際限なく面白さを分かち合うこと、面白さに意味を持たせることを共有すること、なんてできないのだろう。意図したところ笑わせるだなんてコメディ以外もってのほか。意図しないところで笑ってしまうというのが常だろう。だからこそ最後に「俺のコメディ映画に〜」と言ってしまうのだろうし、ケツを見せたがるという一種のスラップスティックが完全にスベったのである。というかアレは二度目から笑ってしまうはず。何回も続くことによる笑いが、あの結果をもたらすのだ。

「そして完全に本物そっくりにつくりこまれた劇中劇は」もはや劇中劇中劇となっており、どう下手に見せるかという巧さまで下手に見せなければならない、つまりは本物のヘタクソに成るしかないという悪夢を永遠と観させられているのが、最後に一瞬だけ快感に変わる、そしてそれはあらかじめ分かっているという随分な構造なのである。





ウィーアーリトルゾンビーズの自己主張



自分たちが語るために誰かに語らせることは、自己主張において大切である。不遇な子どもたちの体内は自己主張で充ち満ちており、溢れんばかりの音楽によってそれは発散される。そしてその自己主張は死によって(ある意味で)邁進し、生がストップをかける。これは俺たちの実人生とは真逆の構成になっており、自己主張による物語性を生んでいるのだ。

日本人は自己主張が足りないとよく論題にあがるが、この映画は前述のとおり自己主張で充ち満ちている。が、充ち満ちているのは大人びた子ども、子供染みた大人だけである。この逆転性を主張するために語らせているといっても過言ではない。冷めている子どもと熱くなった大人。だからこそ彼らの言葉が入ってくる。説得力があり、子どもも大人も心が動かされるのだ。自分とは違うから。そしてそれが自分と似ている場合は同化できるから。全員が共感出来るようになっている。f:id:sumogurishun:20190630090422j:plain