『皆殺しの天使』は今

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『皆殺しの天使』

「NEW」や「新」とつくものが本当の意味で新しいことなどないし、それ同様「皆殺し」とつくものが本当に皆殺しであったことなどないんじゃないかなんて思ったりします。笑 もっと良いタイトルがあると思うんですけどね。

『出れねえだよ』

とかはどうでしょう。ちょっと田舎臭くなりましたが、意外とみんな田舎者でしたもんね。エレガンスをなくしていく様がエレガンスでないというね。笑 凄いおもしろかったです、映画は。笑 同じシーンが繰り返されたとこでざわめきましたもんね。上映中に。笑 

「俺たちが連れて行かれたのは」

心配しても仕方がない在り方。望んでいることが叶う確率は高いですけど、心配事が実際に起こる確率ってのは随分と低いわけです。結局のところ、そうなるように望んでしまっていたら、起きてしまう。つまり予想出来ることの全ては起こってしまいます。今起きていることは誰かが予想した未来ってわけですね。しかしそれは自身が心配していることとは違う。物凄い絶妙な部分が現在だってことです。それが『皆殺しの天使』です。

(2017年12月24日のブログより抜粋し改稿。)



『運命は踊る』ペニスを振り回して。



フォックストロットは決められたステップを踏めばどのような動きをしても元の場所に戻ってくる。これを運命にはめ込んだのがこの『運命は踊る』である。気持ちよすぎるアングルと物語の構成は決められたステップに倣ってあり、どんなに暴れても映画的技法に帰結する。それがフォックストロットからマンボへの移行シーンであり、ダンスシーンを観にきたパンッパンに期待が膨らんだ観客を、三部構成のうちの二部の最初で射精させることに成功している。こうして落ち着いた観客は物語の大仕掛けを雑念なく楽しめる。

「なので謎はすべて」
踊りながら観たとしても分かってしまえるだろう。画で提示された伏線を画によってじっくりと拾っていく。挿入されるのも絵であり、導かれるのはもちろん射精である。全ては射精後の状態に帰ってくる(俺が嘘を言っていないことは映画を観た後にわかるはず。笑)。これは罪の物語であり、その起源は射精にある。射精ではじまり射精で終わる。第3部で妻が服を一枚脱いだのがこれから始まることを示している。

「何回目かの射精直前の話をすると…」
丁寧すぎるほど伏線回収だが、ラストシーンはあまりにも優しい。ミスリードさせたまま終わらせたくないのは、責任を誰かのせいにしたくないからであり、運命だと結論づけてしまえるようにしている。つまり、監督によって強制的に思考のステップを踏まされているのだ。

「さあ、このペニスを握っている手を振りほどこう」
この思考のステップに抗うにはペニスの存在に早々と気付くことである。笑 ヒントはフォックストロットからマンボへの移行シーンにあり、踊る彼は銃を持っている。銃は男性器の象徴である。彼はペニスを中心にマンボを踊っており、これに気づいた瞬間に「ああ、ペニスの物語だあ…」と悟るが勝ちである。笑 おまけに父は最後のベッドストーリーブックで自身の裸に興奮してペニスを握っている。もはやここで爆笑しながら「やっぱりペニスの物語だあ…!!!」と涙を流すしかない。これで思考のステップからはみ出し、全てがペニスと繋がっているように感じるはずだ。笑 その時あなたは、もはや伏線などどうでもよくなっているだろう。

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『半分、青い』が愛は惜しみなく奪う



『半分、青い』


物語上の死に魅了された(殆ど取り憑かれていた)魔女のごとき北川悦吏子が参考にしたのは、誰も死なない『あまちゃん』だったことにも明らかだが、このあえて逆をいく手法で幸せになった人は視聴者にいないだろう。笑


あまちゃん』のように小ネタやオマージュを挟み、彼女は物語にとって特別な死を流し込む。死をアクセントにすることの恐ろしさは作り手ならば解るはずだが、彼女は惜しげも無く殺す。愛は惜しみなく奪う。

そして、片耳が聴こえないというこれまで忘れ去られていた設定(克服していたとは到底思えず、上手に付き合っているというわけでもなく、単に物語の進行に邪魔だから忘却している)を最後に出し「メロディ」という不確かなもので終えるのは、彼女が自分の正しさ(障がいを上手く扱った作品を産み出せる)を示したかっただけだろう。北川悦吏子の無敵感はここにある。この正しさを肯定できるのは破綻を喜びと捉えて笑っている遅れたニヒリズム。もう冷めた破壊では面白いものは作れない。


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『さんまの「俺は裸だ」』ミスリードとオーバーアクションによる裸のランチ


『さんまの「俺は裸だ」』

明石家さんまが(足の速い、よく駆け回る男として)走るシーンが『太陽にほえろ』のジーパン刑事のごとく描かれるが実際に速く見えるのは、明石家さんまがいま現在走らない(走る姿を見せない)からというのもあるだろうが(笑)、やはりオーバーアクションで身体全体を振り回しているからだろう。これは彼の芸風によるところもあるけれど、大きな動きで表現するには当たり前ながら強調することができる。彼が笑いを強調(もしくは誇張)し、自分を面白い男だと見せているように、足の速い男だと思い込ませている。

ただ、足の速い男が駆け回るのを見せるだけではなく、常に彼は覗かれている。常に既に見られている状態である。だから『さんまの「俺は裸だ」』なのだ。冒頭から明石家さんまが裸であることで、出オチ感漂うラブホテルスタートなのだが、ミスリードを狙っている。

「そして的外れに見える精神科医(奥田瑛二)が」
序盤から登場し彼に付きまとい、彼を精神病だとあえてミスリードに見えるように大袈裟に語るが、実のところほんとうに精神を病んでいたのだ。オーバーアクションとミスリードによって、足の速い男が駆け回る理由が、精神が病んでいるからと明らかになっていく。ここに家に執着する明石家さんまという要素が入り込んでいき、精神を病んでいる理由も明かされていく。

筒井康隆脚本ここにあり。という感じでDVDになっていないのが残念でならない。そしてこれはドラマだ。映画ではない。





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『暗殺のオペラ』どうにかしている街ではどうにかしていることになれてしまう


『暗殺のオペラ』


「まず…」
構図に見惚れているとストーリーを見失うが大丈夫。最後だけ見てもわかるから。笑 

「構図ぁ…」
ドリーしていくとピッタリ石像に歩く主人公が隠れるってヤバいでしょう。やべえなあ、やべえなあって思っているとだいぶんストーリーが微妙なんですよね。この街はどうかしている系の話にありがちな「どうせどうかしているから、どうかしているだろう」的思考になってしまうんですよね。何が起きても驚かないし、驚きにも慣れてしまう。ただ、構図(どうにかしている街がやべえ切り取られ方しているんですよ…)には慣れない。ここがこの映画の肝です。最後に種明かし的なものが用意されているのですが、まあ「やっぱどうかしてたわこの街」だって(以下ネタバレ注意)主人公の父はムッソリーニ暗殺計画をわざと密告して自分を仲間に殺させて(全てファシストのせい&シェイクスピアを参照)反ファシストの英雄をでっち上げただなんてねえ。街の人たちもなんとなくその英雄譚にノッていただけだなんて。めっちゃ面白いですけど、ギロチン社大好きな俺からすれば、上手いことやるなあですよ。笑 こちとら未遂で処刑ですよ。これが創作と現実の差なのかもしれませんが。笑


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『愛しのアイリーン』のモザイク考


愛しのアイリーン

誰も救えない声が聞こえる。それ自体が救いじゃないか。決してハッピーエンドではないが、登場人物は最終的に救いを得ている。この劇(的なるもの)からの退場は死ではない。表面上は死なのだが、実際に退場しているのは救われなかった者たち。愛されなかった者たちである。

「淫りつ」
久々に邦画で純粋なモザイクを観たが『シェイプオブウォーター』の時のように「モザイクなんていらねえよ。みてえみてえ」とならなかったのは、あまりに馬鹿馬鹿しいモザイクだからだろう。モザイクは笑いの膜へと変わり、隠さなければならないはずの性器は、隠れていてほしいものへと変わる。見えてほしいものが隠れてほしいものへと変わる。しかし、検閲側が隠れていてほしいものだった性器が、観客が隠れていてほしいものへと変わる。これはかなり現代的な性表現ではなかろうか。近現代の性表現は全てを見せることで評価を受けていることからも、このモザイクの新しさがあるが、実は隠すべきところやセクシーシーンはこの映画に多々存在し、モロに出ているところだけをモザイクにしている。「遂に来たよ!」という期待からくる興奮と「やっぱりね」という諦め、そして現代劇の野外シーンにアダルトヴィデオばりのモザイクという異化効果。計算された性表現を映画で観れることこそ、現代アートと呼ぶべきだ。そしてこの性表現をモザイクアートと呼ぼう。笑

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『大虐殺』寝ても覚めても観たらそうでも


『大虐殺』
関東大震災直後と虐殺(軍人やべえなあと思わざるをえない描写ばかり)を丹念に描き、大杉栄が見せ場なく死に、中濱鉄と古田大次郎が混ざった役を天知茂(役はどうあれ、くそかっこいい)が演じ、『菊とギロチン』が参照してるであろうシーンが多々あるというだけの映画だったけれど、未DVD化なため伝説になっていた映画。セクシーなシーンが一切なく、無駄に硬派なのがギロチン社の滑稽さを強くしている。


ちなみに『菊とギロチン』が参照してるであろう場面は、和久田なる人物が大杉栄の演説中に逮捕されるシーンと、「女が守れなくって〜」の部分。まじでこんな映画から良いとこ盗んでるなって思う。


暗くじっとりした質感のため、失敗が陰惨になってしまう。本来、本気の失敗は笑いに転ずる可能性を孕んでおり、ギロチン社を題材にした作品(映画、小説、伝記など)はどこをどう落とすか、どんなふうに失敗を描くか、がキモになるのだが、『大虐殺』は失敗している。笑 実は『日本暗殺秘史録』の古田大次郎パートも似たような質感になっていて、これが昭和のギロチン社の映画の空気とも言えるのかもしれない。


瀬々敬久監督は、この昭和的質感を逃れるために、女相撲を登場させて、見事な青春群像劇に仕立て上げたのだろう。『映画芸術』で荒井晴彦は監督の前でクソミソに貶していたが、それは昭和的質感に取り憑かれていたに過ぎない。『映画芸術』のこの記事を読んでしたり顔になっている奴もしかり。笑



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