映画的殺しの新境地『ビューティフル・デイ』


ビューティフル・デイ

原題は『You Were Never Really Here 』だが日本や他国では『ビューティフル・デイ』と名付けられている。映画を広めるために英語を英語で直すのは、気持ち悪いことだと思う。「この邦題をつけた人は神」だとか色々な意見があったが、考えたのは日本人ではないだろう。英語圏の国の宣伝マンが英語タイトルをわかりやすいタイトルに直す。こんなことがあっていいのだろうかとも思うが、原題の良さが比較され分かるのならいいのかもしれない。

ミッキーマウスと蒸気船」
ミッキーマウシングスレスレのジョニー・グリーンウッドの音楽は、もはや劇伴かすらもわからないほど自然に不穏が鳴っている。ホアキンと同期するというよりかは、画と同期している。常に既に巻き込まれているホアキンと同期するには、先に音が鳴っていないといけないが、現在の時間軸にホアキンがいないために、未来や過去の画とジョニグリの音楽は同期しないとならない。それをやってのけたために、奇妙なミッキーマウシングが起こっている。


「映画的殺しの新境地」
だろう。ホアキンの演技、リン・ラムジーと撮影スタッフによるこの殺しの見せ方は。屋外ではホアキンとの何かを間に挟むことによって、現実との境界を作っているが、殺しが行なわれる屋内では、この境界は取っ払われる。つまりは殺し自身があいまいなものとして表現されている。実際に殺しが行われる瞬間が描かれていないのもそのためである。だからこそ現在の時間軸にいないホアキンが常に既に巻き込まれながらも、先に見せるのが未来という編集が画が新しく見えるのだろう。


「半魚人よりも」
このブログの「映画を論じる際に別の映画の名を出さない」というルールを少しだけ破るが、水中シーンの美しさは『シェイプ・オブ・ウォーター』に勝るだろう。ネタバレを避けるためにこれ以上は伏せておくが、(三十四字伏せ字)の美しさに震えが止まらなかった。



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『長江 愛の詩』なぜ詩でおまえを語るのか


長江 愛の詩


「詩以外は全て良い」
長江を舞台にしたこの映画の主人公は、手に負えないほどの自然があるのに、書くのは自分のことばかり。現代の詩を書く人(今回の場合は監督)はなぜみんなこうなのかが不思議でならない。みんな自分のことばかり。自分のそばのことばかり。おまえがここにいるのはわかっているから、頼むから詩を書いてくれ。おまえの言葉で詩を掬いあげてくれ。詩でおまえを語るのはやめてくれ。

「だからこそ名撮影監督リー・ピンビンのヤバさが際立つ」
天才は自然に勝つ場合もある。笑 雄大な自然を前にしても慄くことなく実際の長江より美しく撮り、現代の「リアルこそ全て」「俺の正しさの前では嘘は全て無効」というクソストリート精神を持つもの全員を黙らせることができる彼の画は唯々自信に満ち溢れている。あえて自信のないショボショボの詩と対比させることで、画面に映らない自然の強さ(長江の圧倒的強度)を観客に感じさせようとしているのかもしれない。

「内容はもう監督がネタバレ混みで全部インタビューで言っちゃってるけれど。笑」
話はいたってシンプルで、主人公の男の船は長江の上流へ向かい、女性はその先々で待ち受けるも、上流へ行けば行くほど若返っている。しかし、女性は男を追っているので記憶は男性と同じ軸にある。つまり女性は長江の流れそのもので、長江の流れは時間の流れである。それに反して男性が見てゆくのは、修行僧になれなかった女性が無垢な少女に戻っていく過程だった(その女性が現れる場所は男が船で見つけた詩に描かれた場所で〜この先はもう野暮だからやめよう。ちなみに終盤からオチにかけては芸術的だがしょぼい。笑。そりゃこのオチしかねえよなと思う。笑)。

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ハイタッチしないこと『レディプレイヤーワン』

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ハイタッチは喜びを確認し合うことの表面化である。「俺は今のすっごいよかったよ!おまえも?」「うん!」
これをアクションで示すのがハイタッチである。実際の感情が見えないこと、見せないことがバーチャル世界の良さなのに、それをいちいち確認してしまう。それが主人公の甘さである。しかし、ハイタッチに応じないことも、感情を見せてしまっている。実はこの主人公、やり手である。現実と非現実の見境がないように見せておいて、理解している。相手の感情を知る手がかりは、その相手が関わるものすべてにあることを。そして、彼はさらに分かっている。感情なんて不確かなものは見様によって変わることを。


不確かなものを確かにするには、確かだと思い込むことだ。確かなものが実際に確かだなんて学者にしかわからない。しかし学者にわからないことがわかることだって生きていればたくさんある。どうしてか。そうだとわかるから。経験から?感覚から?計算して?思い込む。


「もしかしてこれって!」
そう、レディプレイヤーワンの世界である。思い込んだことは実現する世界「オウェイシス」でハイタッチできると思い込むことが成功の鍵であった。

ふたりでタンゴを踊るなら単語なんていらない『ブエノスアイレス』


ブエノスアイレス


「やり直す」とは、何をやり直すのか。わからないまま言っているふたりは、何もやり直すこともないまま、新しく始まることもないまま、旅立ったり、同じ場所にいたりする。ひとりは新しい出会いを断ち切ってまでも過去を引きずり、ひとりは過去をはじめから引きずり続けている。ふたりは常に既に過去を引きずっているにも関わらず、やり直すと言いながらも何を「やり直す」のか、何が「やり直す」なのか、わからないまま現在を過去にしながら引きずっている。その証拠に、ひとりは「もし会おうと思うなら、どこだって会える」と立ち寄った屋台に置いてあったもうひとりの写真を見て言うのだ。

素潜り旬「ふたりでタンゴを踊るなら」
単語なんていらない。笑 と洒落で終わらせるのもあれだが、文字通り言葉なんていらないシーンだ。つまり「やり直す」だなんて言う必要もないのに、言ってしまうから関係は悪化するのだ。やり直し方は分かっているのに、言葉にした時の返し方がわからないようだ。このもどかしさが互いの嫉妬となり、失いたくないのに失ってしまう方へと進んでしまう。ふたりの無軌道なタンゴのように。


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『花様年華』は夢二の匂いの夢で逢えたら


花様年華

一線を越えたかどうかを明らかにしない。ただ花のように匂わせるだけ。

花は魅せることによって単純な美しさを表現することが簡単に出来るが、匂わせることは感じさせることである。花の良さは見ただけでもわかるが、匂いを感じることで味わいが変わる。

一線を越えたのを匂わせた先にある匂いを感じる。ここにともすれば流し見で終わってしまうこの映画を愉しむ術がある。

素潜り旬「加えて」

花が部屋にあるだけで心が豊かになるか、もしくは気が滅入ってしまうという、花が心の在り様を決めるという状態を女性に置き換えた(もしくはその逆、女性を花に置き換えた、もしくは花を男性に置き換えた)場合、その匂いは嗅ぐ人の状態に委ねられるという一種の倒錯めいたものが現れるが、その倒錯をあなたが良しとしないならば、匂い自体を花から香水に置き換え、トップノートからラストノートまでの匂いの変化のように、このふたりが漂わせる匂いを全編を通して(あるいは鑑賞前か後に至るまで)、味わえばよい。

素潜り旬「実は…」

この匂い、『夢二のテーマ』によって耳でも味わうことができる。この鈴木清順監督『夢二』の為に作曲された『夢二のテーマ』が劇中、何度も流れるが、流れるタイミングによって聴こえ方が変わってくる。鈴木清順の『夢二』とも違った意味合いで流れるのに、さらに劇中で使い分けられるこの曲は、この映画の「匂い」そのものともいえるだろう。

素潜り旬「そして実態のない匂いは」
夢と同一化してしまいもできるだろう。夢に匂いはあるのか、ないのか、人それぞれだが、痛みや感覚はある、というのは多いのではなかろうか。掴めないが、感じるもの。味わったが、実際には体験していないこと。これはまさしく映画そのものだ。つまり、映画のストーリーを夢なのかどうなのかと捉えるのではなく、映画の内容を映画と捉えること。ここにある種のリアリズムが生まれ『花様年華』を匂いとして可視化してしまえるという夢を見れるのである。






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さよならの向こう側にある美しさと、いじらしさ『欲望の翼』


欲望の翼

物語から1度退場する時に、捨て台詞を吐いていく登場人物たちは総じて去り際が無様で。無様であることを意識させ、物語を美しくあらんとする意思を持たせている。誰に?登場人物にである。

入れ替わり立ち替わる90年代スタイルは、DJ文化の興隆におけるレコードのリバイバルと同じように瞬間的に消費すること、そこから新たな文脈を生み出すこと、と共鳴しており、シーンのスイッチに気持ちの良い音楽が流れると、登場人物はカメラの目線を意識して踊っている。

登場人物の 語り や 踊り によって物語であることを意識させるのは、登場人物自身が物語を意識すること、そしてそれを観客が認識すること、によって、多層的な意識が多層的な物語を更なる多層に誘い、逆に高層ビルになった。笑 これにより、大きいものは大きい、高いものは高い というある種の単純な分かりやすさを生み、美しいものは美しいという、評価される作品の図式をうまく作り上げ、ブレイクした。

レスリー・チャンは、この映画の無様な美しさに自身のアイドル的な儚さを絡ませ、ジェームズ・ディーンショーケンを彷彿とさせる演技でさらに『欲望の翼』の評価を高めた。しかし、彼が前述のふたりよりも本質的に近いのは、沖雅也なのかもしれない(野暮だからワケは書かないが)。涅槃では待たずに、さよならの向こう側にいるだろうけど。

さよならの向こう側は、レスリー・チャンによる山口百恵のカバーである(一度聴いてみてほしい)が、それだけでなく『欲望の翼』の登場人物は、さよならの向こう側に含みを持たせている。それは悪あがきのようにも見えるが、認識することを念押ししているのである。「忘れるなよ」と。さよならのかわりに。


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痛みによって、ひたすらに観衆を乗せない『蒲田行進曲』

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痛みによって、ひたすらに観衆を乗せない『蒲田行進曲

深作のリズム感悪さは、徹底的に登場人物を這わすことによって、セリフの抑揚を強調させるに至り、それが大味な演技と絶妙に合っている。この映画には印象に残る二曲の音楽が流れるが、一曲は萩原健一なら柳ジョージに歌わせていたような曲だからアレだが、もう一曲はテーマ曲で、踊りが入ってもおかしくない。それを踊らせないばかりか、映画全編を通じて、全くリズムに乗らせない。これにより現代のリズム感ある人(昭和よりも平成の方がリズム感があるのは、日本の音楽史を振り返れば明らかで、昔は「タメ」や「間」が重要視されていたが、いまやスムースに動くことが重要とされる。実は、この差がスター銀ちゃんと大部屋男ヤスの違いである。銀ちゃんは間がたっぷりでいかにもな過去の人だが、ヤスはものすごいステップで仕事をこなしている。しかしそのステップは怪我をすることによってリズム感の一切を失っているが、怪我をすることに関して言えばリズムに乗っていると思えるが、実は怪我をすることが規則的で、決まりになっている。決まりは従うことであり、これはリズムに乗っているわけではない)は、映画に乗ることができない。しかしこの映画はリズムに乗ることの代わりに疼くような痛みがある。その痛みは蓄積され、最後の全部劇中劇中劇でした。というどんでん返しとは全く言えないブツ切り(リズムに乗るどころか全ての線を断ち切る)によって、この痛みはなかったことにされる。急に痛みが取れるこの感覚が人々が夢見る魔法による治療法であり、創作の喜びである。