『サイコ』からはじめる最高のオマージュ論


『サイコ』
印象的なシーンばかりであるが、内容はどうでもいいものばかりである。印象的なシーンを撮るために動かされている物語であるがために、批評するスペースが溢れている。切り取って作られているため、切り込んだ批評がしやすいのだろう。だから俺はこの映画はほとんどどうでもよく、オマージュするのは面白いだろうけど、この映画のオマージュをすることはシネフィルへのサービス以外のなにものでもなく、やるだけの価値は既になくなってしまっている。「この映画を観たし分析だってしたからね、俺わかってるでしょ」という表明としては抜群であり、それだけでセンスがあるように見えてしまう現代でヤっちゃう奴はいるだろうし、飯が食えている人と飯が食いたい人はヤるだろうが、ヤったらそれまでである。そこで終わってしまう。オマージュというのはそういうことではなく、自分が思いついたスペシャルなことが偶然カルト的な名作と被ってしまった場合にするいいわけである。笑 あくまでもパクったわけではないという微妙なニュアンスを表明するのに、すごく便利な言葉であり、この言葉を使って保険を張らない奴は大体でネットでパクリだのなんだの言われている。いまや、元ネタや影響を受けたものを隠す時代は終わり、オマージュという言葉でウザったい人々を黙らせるばかりか納得させ、あわよくば信頼できると思わせファンにしてしまう時代である。f:id:sumogurishun:20180128180611j:plain