『ケンとカズ』イケン構造と悪寒暴力ズ


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棒読みでまくし立て合うほどに浮かびあがるホモセクシャルな関係。バディものというより、ブロマンスであり、BGのキムタクと江口洋介に近い。それに加えて母親との倒錯的な愛。それらをチラつかせて含みがあるようにみせながら、日活ロマンポルノのセックスばりの間隔でかます暴力。今のインディーズ監督たちは暴力で全てを解決させる。それが1番手っ取り早くかっこよく盛り上がるからで、学生時代イキれなかったシネフィルたちの気持ちのよい高揚感を煽るからである。北野武の場合はそこに芸術的な感覚や理系思考があったから様になったものの(良いか悪いかは別にして)、この映画の監督であったり『全員死刑』の小林勇樹監督には、破壊とオマージュでファンをぶち上げながらリアルを描くことでオジちゃんノックアウトをかましている。そして俺は別の意味で(こちらが正しい意味かと思う)ノックアウトされ、観るのをやめた。気分が悪くなったからである。途中で観るのをやめた映画について書くというのもインターネット的でいいのではないかと思う。どうして気分が悪くなったかというと救いのない暴力だったからであり、見ていて気持ちの良いものではなく、芸術的なものを感じるでもなく、ただただ暴力がそこにあったから。である。もしかしたら、暴力を芸術で覆い、映画に昇華するという気持ちの良い映画体験を、若い監督からはもうできないのかもしれない。暴力をそのまま味わうこと(それはIMAXなどの体験型劇場で上映される映画のように)、でしか喜びを得られない層が現れて来ているからなのか、それとも、暴力が隠蔽され、摘発される時代に生きる監督たちが暴力を表現するとなると堰を切ったように溢れ出るリアルな質感の暴力を、助長することが趣味の「その場に留まり続ける大人」が操っているのか。たぶん両方だと思うが、それで得をしているのが当事者のみだということに少し悲しくなる夕暮れ時で。そんな俺の口から血が垂れているのは今を生きているからで。