『月夜釜合戦』から読み解く詩と音楽

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『月夜釜合戦』

「ある場面で」
突然踊り出すこと、歌い出すことに何の違和感があろうか。俺たちだって、時々歌ったり踊ったりするじゃないか。そして、それは突然だったりしないか?するだろう。「あいつハナウタばっかり歌ってんじゃねえか」「急にモノマネすんじゃねえよ」など、俺たちはいつだって前触れ無しに踊り出す。笑 前触れがあるとすれば、何かを経験した後である。映画だってそうではないか。何かが起きた後に踊る。恋をした後、恋に破れた後、楽しかった時(歌い踊るから楽しいのではなく、楽しいから歌い踊る。というのが歌い踊るという行為の基本であり、気持ちを表現することで歌や踊りになり、無の状態から歌い踊るならばそれは表現ではなく、ただの行動であり、一種のコンセプトアートと化す。それはそれで表現なのだが、自覚的であればダサく、無自覚であらば「詩」である。この状態の「詩」つまり「ポエジー」を見つけ出しすくい取るのが詩人である。これを出来ずに詩人と名乗る人の多さよ。詩を書くことは誰にでも出来る。その詩からポエジーを見つけ出すことができる詩人が存在する限りは。つまり、詩を書くという行為を他者に委ねているにも関わらず詩人と名乗ってしまうことによって、詩人が埋もれてしまうのだ。詩人のための詩人が増えるばかり。詩人は詩人と名乗る人の血を吸って詩人となっている。現在、詩人と呼べる人物が減り、詩人と呼べても詩人のクオリティが低いのは血が悪いからである。残念なドラキュラ詩人…)悲しかった時、など結果的に歌い踊ることになった者たち!これは現実でも同じではないか!恋の終わりにカラオケ行って泣くでしょうレイデイ?

「そして、一回歌い踊れば!」
何度だって歌い踊ってよいはずである。何故なら、一度歌い踊ってみせたから。一度歌い踊った者は、また踊るという認定を受ける。こいつはまた歌い出すかもしれないという疑念を生む。つまりこいつから音楽が発生するかもしれないという疑念をも生み、音楽の可能性を生み出す。これが「ミュージカル」である。長くなったが、これが「ミュージカル」なのである。ミュージカルが嫌いだという人の理由の大半「突然歌い踊るからわけわかんねえ」がどれだけ見当違いかということがわかるだろうか。本来、(生きる上で触れ合っているのだから)理解せずとも楽しめるはずのミュージカルを拒否することによって心理的トラウマを呼び起こさないように自己防衛しているに過ぎない(だから見当違いというのとも少し違うのだが)。ミュージカルが嫌いな人々は、常日頃から悲しい時には音楽が寄り添っているのだろう。しかし実際には彼らこそがミュージカルに最も近いのである。