曝け出すことによって、隠している『デヴィッド・リンチ アートライフ』


デヴィッド・リンチ アートライフ』

リンチはこの映画で、本音というよりかは無意識的に作品のミスリードを誘っている。あからさまなドメスティックに、自身の過去の体験に答えが隠されているとでもいうかのように語り、監督によって編集され、観た者によって解釈されていく。それはある部分では答えになりうるが、ある場面では答えになり得ない。つまり、彼がこうだから作品(や登場人物)はこうなんだ。という作者の親族がするような読み解きしか出来なくなってしまう。ただでさえリンチは、作品に文字を書き込むことによって作品の本質を隠し、その向きでの読み解きに制限する。ミスリードを誘っている。そして今回の『アートライフ』は彼のアートライフと生い立ち、環境により、彼の作品の読み解きをその方面のみに制限しようとしている。パーソナルな部分は、作者の本質には近いが、作品の本質となると別である。なぜなら、映画は1人で作っているわけではないからである。様々な要因が重なり(例えばスタッフが違えば作品の内容も違ってくる)、映画となっているのに、リンチのパーソナルな部分で作品を決めつけるのは、危険である。そして、映画の答えを探すことは読み解くことではなく、自身の納得にしか繋がらない。f:id:sumogurishun:20180227194118j:plain