さよならの向こう側にある美しさと、いじらしさ『欲望の翼』


欲望の翼

物語から1度退場する時に、捨て台詞を吐いていく登場人物たちは総じて去り際が無様で。無様であることを意識させ、物語を美しくあらんとする意思を持たせている。誰に?登場人物にである。

入れ替わり立ち替わる90年代スタイルは、DJ文化の興隆におけるレコードのリバイバルと同じように瞬間的に消費すること、そこから新たな文脈を生み出すこと、と共鳴しており、シーンのスイッチに気持ちの良い音楽が流れると、登場人物はカメラの目線を意識して踊っている。

登場人物の 語り や 踊り によって物語であることを意識させるのは、登場人物自身が物語を意識すること、そしてそれを観客が認識すること、によって、多層的な意識が多層的な物語を更なる多層に誘い、逆に高層ビルになった。笑 これにより、大きいものは大きい、高いものは高い というある種の単純な分かりやすさを生み、美しいものは美しいという、評価される作品の図式をうまく作り上げ、ブレイクした。

レスリー・チャンは、この映画の無様な美しさに自身のアイドル的な儚さを絡ませ、ジェームズ・ディーンショーケンを彷彿とさせる演技でさらに『欲望の翼』の評価を高めた。しかし、彼が前述のふたりよりも本質的に近いのは、沖雅也なのかもしれない(野暮だからワケは書かないが)。涅槃では待たずに、さよならの向こう側にいるだろうけど。

さよならの向こう側は、レスリー・チャンによる山口百恵のカバーである(一度聴いてみてほしい)が、それだけでなく『欲望の翼』の登場人物は、さよならの向こう側に含みを持たせている。それは悪あがきのようにも見えるが、認識することを念押ししているのである。「忘れるなよ」と。さよならのかわりに。


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