『長江 愛の詩』なぜ詩でおまえを語るのか


長江 愛の詩


「詩以外は全て良い」
長江を舞台にしたこの映画の主人公は、手に負えないほどの自然があるのに、書くのは自分のことばかり。現代の詩を書く人(今回の場合は監督)はなぜみんなこうなのかが不思議でならない。みんな自分のことばかり。自分のそばのことばかり。おまえがここにいるのはわかっているから、頼むから詩を書いてくれ。おまえの言葉で詩を掬いあげてくれ。詩でおまえを語るのはやめてくれ。

「だからこそ名撮影監督リー・ピンビンのヤバさが際立つ」
天才は自然に勝つ場合もある。笑 雄大な自然を前にしても慄くことなく実際の長江より美しく撮り、現代の「リアルこそ全て」「俺の正しさの前では嘘は全て無効」というクソストリート精神を持つもの全員を黙らせることができる彼の画は唯々自信に満ち溢れている。あえて自信のないショボショボの詩と対比させることで、画面に映らない自然の強さ(長江の圧倒的強度)を観客に感じさせようとしているのかもしれない。

「内容はもう監督がネタバレ混みで全部インタビューで言っちゃってるけれど。笑」
話はいたってシンプルで、主人公の男の船は長江の上流へ向かい、女性はその先々で待ち受けるも、上流へ行けば行くほど若返っている。しかし、女性は男を追っているので記憶は男性と同じ軸にある。つまり女性は長江の流れそのもので、長江の流れは時間の流れである。それに反して男性が見てゆくのは、修行僧になれなかった女性が無垢な少女に戻っていく過程だった(その女性が現れる場所は男が船で見つけた詩に描かれた場所で〜この先はもう野暮だからやめよう。ちなみに終盤からオチにかけては芸術的だがしょぼい。笑。そりゃこのオチしかねえよなと思う。笑)。

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