ウィーアーリトルゾンビーズの自己主張



自分たちが語るために誰かに語らせることは、自己主張において大切である。不遇な子どもたちの体内は自己主張で充ち満ちており、溢れんばかりの音楽によってそれは発散される。そしてその自己主張は死によって(ある意味で)邁進し、生がストップをかける。これは俺たちの実人生とは真逆の構成になっており、自己主張による物語性を生んでいるのだ。

日本人は自己主張が足りないとよく論題にあがるが、この映画は前述のとおり自己主張で充ち満ちている。が、充ち満ちているのは大人びた子ども、子供染みた大人だけである。この逆転性を主張するために語らせているといっても過言ではない。冷めている子どもと熱くなった大人。だからこそ彼らの言葉が入ってくる。説得力があり、子どもも大人も心が動かされるのだ。自分とは違うから。そしてそれが自分と似ている場合は同化できるから。全員が共感出来るようになっている。f:id:sumogurishun:20190630090422j:plain