俺の『サウダーヂ』

 

『サウダーヂ』



俺たちが俺たちであること、俺たちが、個々の俺でしかないこと、そして俺たちの間には、思考に隔たりがあるように誰一人として思考が繋がっていないように、隔たりがある。この隔たりは、考えずともわかるほど、当たり前な隔たりであり、だからこそ断絶されている。その断絶には語るべくもの、語られるべくして語られるものがあるが、映画とは、何を語り、何を語らないか、であるためにその断絶はすべてが明らかになるわけではない。その語られなかった断絶こそが、匂いとなり、サウダーヂとして表現される。言葉で表せないこと、例えば、日本人とブラジル人の表層的な違いだとか、日本人とフィリピン人との表層的な違いだとか、はたまた東京と甲府の違いだとか、簡単に表せそうで、表せられないこと、どうしても中心を捉えようとしてもできないことをサウダーヂと呼んでしまうことで、ブラジル人は軽々と乗り越えられてしまう。つまりは、サウダーヂという考えを持つ者と、持たざる者。この映画をこの二種類の人しかいないと考えれば楽かもしれないが、そんな断絶はこの映画には存在しない。誰も誰かがサウダーヂと呼べるものを持っており、それがサウダーヂとは限らない。それがこの映画の断絶なのだ。



「俺、ヒップホップ」


俺たちはまず、俺たちと呼ぶことをやめない。俺たちは俺たちであることをやめない。俺たちは各々が俺であることをやめない。しかし俺たちは一つの俺である。だから、呼吸の集まりだ。呼吸が集まればグルーヴが生まれる。呼吸は言葉で表すことができる。いや、呼吸は言葉に置き換えられる。言葉をグルーヴさせることができる俺たちはクルーだ。音楽を鳴らしている。音楽が鳴っている。俺たちはヒップホップをしている。その場のノリが表現になる。だから俺たちはこれを選択した。だから選択させられたとも言える。その場のノリだから、生活に一番近い。生活に一番近いのが俺たちにとってはヒップホップだった。だから俺たちはこれを選択したと思っていた。しかし俺たちは選択させられていた、生活に、生活とは、その場のノリ、だから俺はヒップホップを選択していた。だから俺はこの選択を悔いたのかもしれない。その場のノリでは、その場をノせることができないことに気づいてしまったから。俺は俺でしかない。俺の生活は、おれの生活でしかない。それは果たしてヒップホップなのだろうか。俺は俺たちであることをやめた。しかし俺は、俺たちと何も変わっていない。




「俺、土方」


タイに行きたいけれど結局行かない。この構図は神代辰巳監督の『アフリカの光』と同じである。行きたい、行きたいと公言して、結局この映画内ではいかない。アフリカに行きたい萩原健一は、アフリカのマグロ漁船がないからという理由で留まっている。しかし、アフリカ行きの船が帰ってきても彼は船に乗らないのだ。ヤクザがらみの理由で乗らせてもらえない、相棒が遠く離れてしまったと言うのもあるが、彼はどうやら何かアフリカ行きの船に乗ることが終着点なのではないか。そこから先のことは考えられない。だからあえて先延ばしにしてしまう。そんな感じがする。それに似たようなものを、このタイに行きたい男に感じる。俺はタイに行きたいが、ぼんやりとした行けない理由のせいで留まっている。俺はフィリピンにもいけない。ああ、仕事もなくなった、何をすればいいのか、そうした不安からどうしたらいいのか分からない。そうだ、女に置き換えよう。このどこにもいけない気分、このどこかを女で埋めてしまおう。俺のサウダーヂとは女なんだ。辿り着いたのは、人との繋がりである。そして、彼らのサウダーヂも結局は人との繋がりだったことに気付く。そうだ、どこにいても誰といても感じるサウダーヂは、人と会うこと、会えないこと、繋がりそのものなんだ。



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