愛おしき『GUAVA ISLAND』

解放を宣言する場合に、俺たちに必要なのは音に合わせることであり、それはミッキーマウシングでも構わない。同調するのは周りにではなく、音楽に。であり、ひとりで行うことではない。すべてを構築し島をを完成させたドナルド・グローヴァーが産み落としたベイビー、チャイルディッシュ・ガンビーノの映画。

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便乗して挑発させてもらおう『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』

人間が飯を食うときに、肉片としてでなく、動物として認識してしまう場合に、食べられなくなる、という現象があったりなかったりだが、俺の場合のうさぎがそうだった。ヨゼフ・ボイスのベストが頭によぎってしまう。緑の党が、島のようにガラパコスしていて、マジで内部でパコパコしているのだろうと考えていたのだが、わりかし俺の同性愛っぷりからして、そんなことないだろうとタカをくくるも、縛っていたのはうさぎだった。そんなうさぎを見たのは小沢健二の小説ではなく、リトルチャイナで、それは俺のリトルゴッドだった。だからと言って、崇めようとはしなかったし、おどけるばかりで、討論会でも煙に巻いたのはユーモアを使ったのではなく自分で笑って見せたから。ああ、毛皮はこんなにも女性に見えるのか。果たしてそれはどこの毛だろう。内部監査における登場人物にはアンドレ・ブルトンばかりが目立っていたが、実際、坂本龍一やナム・ジュンパイクが踊らなかったことが先人のリスペクトにつながっているのだと思うことばかり。唯一、ヨゼフボイスは踊れなかったのだろう、実際に。リズム感がないばかりか、踊るのを見ている。身体的リズムを他者に授けてしまったのかのごとく、踊ろうともしなかった。ただ、彼は振り向くのが好きだった。それが踊ること、つまりはダンスにおける実況見分での誤認が、かの高尚な裁判官によって行われた、芸術というフェイク。俺の右腕は運ばれていくボイスに似ている。常に既に覆われているから夏はどうしていたのだろう、それはボイスにも言えるな。彼の夏服なんて見たくもない。フェルトは批評家には似合わない。マリア・ハッサビにペルシャ絨毯を抱えさせてもらえよ。そうすれば、批評家も芸術の一部になれる。顔は見えないが、その方が都合が良いだろう。だってバレたら票がもらえないでしょう。人気票だ、すべては。だから彼は降ろされた大舞台から。その一連の流れこそ政治と呼ぶべきものだろう。

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『グリーンブック』と『ビールストリートの恋人たち』の祈り


『グリーンブック』と『ビールストリートの恋人たち』


私たちが祈っているのは言葉が足りないから、伝えようとしている何割かは何処か遠くへ飛んでいってしまう。だからこそ飛ばさないようにするのが誠実な人で、飛んでいった言葉を匂わせるのがユーモアのある人なんだろう。

私が祈らないのは、悩みがあるから。

なんてふうに行為が伴う祈りからピアニストをハブらせたなら、狂信的な母もシバかれなかっただろうか。f:id:sumogurishun:20190307135013p:plain

『ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯』にいつまでも胸をブチ抜かれた


ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯』


居る者すべてに必要な存在が死んだ時に表出する喪失は、誰にも癒すことはできない。時間だけが解決してくれる、何が誰が正しいのか、答えは風だけ知っている、ああ、何でこんなかしこまった使い古された言葉ばかりが出てくるのだろうか。それは(イメージの)サリンジャーのように悩む中年保安官パット・ギャレットが主人公だからだろう。彼はいまのボブディランに似ているし、若きボブディランも出演しているし、現代の俺は混乱し(2005年バージョンってボブディランを当て込んでいるのか!笑)、もはやビリーザキッドはテリーマンのような描かれ方でしかないから俺は笑いながらいつまでも胸をブチ抜かれた。f:id:sumogurishun:20190303012447j:plain

『続・荒野の用心棒 ジャンゴ』全ての指が粉砕した後の早撃ちにおけるボンヤリとしたヤバさ


『続・荒野の用心棒 ジャンゴ』


西部劇は赤色が好きっていうかリマスターが赤を強調し過ぎなんじゃないか、ということに気づいてしまった。笑 赤って便利だなあ、空と合わせるだけで映えるし。俺がもしアイフォーンを持った用心棒で、インスタ映えを狙うなら晴れた日だろう。「土に還れ」と叫びながらインカメで腕を振り回す筈だ。

ジャンゴが親しみやすい優しい男で「自由を得るために大金が欲しい」から用心棒をし、結果全ての指が粉砕しながらも早撃ちで5人殺す」というボンヤリとしたヤバさで(西部劇初登場の機関銃は霞み。笑)、イーストウッドが演じるガチガチに固めた不詳の男に対抗するというボンヤリとしたヤバさ。俺はこの映画がずっと好きなんだろうなあとボンヤリ思う。だってもう全ての指が粉砕して早撃ちで5人殺した後の俯瞰の最早、何目線か関係なしのボンヤリとしたヤバさ。笑 

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『荒野のストレンジャー』は赤の他人なのか。


『荒野のストレンジャー


西部劇は赤が好きなことはだんだんわかってきた。笑 「これは血ではない。赤色だ」というゴダール的な感性に対して、赤は血の色だから良いんじゃないかというマカロニ的な感性で街を赤く塗りたくるイーストウッドの方が俺はかっこいいと思う。笑

血が流れない場面では赤を使うことによって、血生臭さが全編に漂うっていう。

ストレンジャーの話はどうでもいいよ。彼が誰だかなんて、俺には関係ないさ。だって俺も西部劇に流れ着いたのだから。笑

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『ドニー・ダーコ』タイムトラベルの夜と霧


ドニー・ダーコ


タイムトラベルの魅力に取り憑かれる人が一定多数いることは、バックトゥザフューチャーがいつまでもカルト化していて、マイケルJフォックスがここ日本では歳をとらないことにも明らかだが、ドニー・ダーコはもう1人の自分にも取り憑かれている。笑 正確にはもう1人の自分に取り憑かれていると思っている。実際には、ただ暗示的であっただけ。タイムトラベルも、もう1人の自分も、ただ暗示的であった。自分の死に対して。映画というものは時間の流れの中に存在し、同じ時間の中に別々の映像は流せない。だから先の未来と、後の未来、どちらが本当だったのかは考えるべきではない。

しかし、先の未来が後の未来に対して暗示的であったのなら、やはり先の未来があって後の未来があるんじゃないか。そんな気もするが、全ては全てと繋がっている。未来を分けて考えることこそがおかしく、未来が未来だとするべきであり、未来を横の軸で分けるのではなく、縦の軸で分ければ途中で死が来るというタイムトラベルの論理が待っているのである。笑

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