さよならの向こう側にある美しさと、いじらしさ『欲望の翼』


欲望の翼

物語から1度退場する時に、捨て台詞を吐いていく登場人物たちは総じて去り際が無様で。無様であることを意識させ、物語を美しくあらんとする意思を持たせている。誰に?登場人物にである。

入れ替わり立ち替わる90年代スタイルは、DJ文化の興隆におけるレコードのリバイバルと同じように瞬間的に消費すること、そこから新たな文脈を生み出すこと、と共鳴しており、シーンのスイッチに気持ちの良い音楽が流れると、登場人物はカメラの目線を意識して踊っている。

登場人物の 語り や 踊り によって物語であることを意識させるのは、登場人物自身が物語を意識すること、そしてそれを観客が認識すること、によって、多層的な意識が多層的な物語を更なる多層に誘い、逆に高層ビルになった。笑 これにより、大きいものは大きい、高いものは高い というある種の単純な分かりやすさを生み、美しいものは美しいという、評価される作品の図式をうまく作り上げ、ブレイクした。

レスリー・チャンは、この映画の無様な美しさに自身のアイドル的な儚さを絡ませ、ジェームズ・ディーンショーケンを彷彿とさせる演技でさらに『欲望の翼』の評価を高めた。しかし、彼が前述のふたりよりも本質的に近いのは、沖雅也なのかもしれない(野暮だからワケは書かないが)。涅槃では待たずに、さよならの向こう側にいるだろうけど。

さよならの向こう側は、レスリー・チャンによる山口百恵のカバーである(一度聴いてみてほしい)が、それだけでなく『欲望の翼』の登場人物は、さよならの向こう側に含みを持たせている。それは悪あがきのようにも見えるが、認識することを念押ししているのである。「忘れるなよ」と。さよならのかわりに。


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痛みによって、ひたすらに観衆を乗せない『蒲田行進曲』

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痛みによって、ひたすらに観衆を乗せない『蒲田行進曲

深作のリズム感悪さは、徹底的に登場人物を這わすことによって、セリフの抑揚を強調させるに至り、それが大味な演技と絶妙に合っている。この映画には印象に残る二曲の音楽が流れるが、一曲は萩原健一なら柳ジョージに歌わせていたような曲だからアレだが、もう一曲はテーマ曲で、踊りが入ってもおかしくない。それを踊らせないばかりか、映画全編を通じて、全くリズムに乗らせない。これにより現代のリズム感ある人(昭和よりも平成の方がリズム感があるのは、日本の音楽史を振り返れば明らかで、昔は「タメ」や「間」が重要視されていたが、いまやスムースに動くことが重要とされる。実は、この差がスター銀ちゃんと大部屋男ヤスの違いである。銀ちゃんは間がたっぷりでいかにもな過去の人だが、ヤスはものすごいステップで仕事をこなしている。しかしそのステップは怪我をすることによってリズム感の一切を失っているが、怪我をすることに関して言えばリズムに乗っていると思えるが、実は怪我をすることが規則的で、決まりになっている。決まりは従うことであり、これはリズムに乗っているわけではない)は、映画に乗ることができない。しかしこの映画はリズムに乗ることの代わりに疼くような痛みがある。その痛みは蓄積され、最後の全部劇中劇中劇でした。というどんでん返しとは全く言えないブツ切り(リズムに乗るどころか全ての線を断ち切る)によって、この痛みはなかったことにされる。急に痛みが取れるこの感覚が人々が夢見る魔法による治療法であり、創作の喜びである。


半魚人と耳が聴こえない女性の可憐なミュージカル『シェイプ・オブ・ウォーター』


シェイプ・オブ・ウォーター

「半魚人と耳が聴こえない女性による可憐なミュージカル」
と俺は考えるのだが、ど直球のミュージカルシーンは置いといて、どこがこの映画をミュージカルたらしめるのか、を論じていこうと思う。ちなみに元ネタになった映画や、近い映画をひっぱりだしてきてわかりやすくしたり、それで文字数を稼ぐような記事はあまり好きではないので、今回はしない。正直、ある映画を語るにはこの映画とかけて語らなくてはならない的な批評が多すぎて俺は別にそういうのしなくていいかなと。何かを何かに似せているのは、作者だけではなく観衆である。だから『アマゾンの半魚人』やデルトロの過去作はこれを書いてから観ようと思う(というのを毎回書くのもしんどいので、今までは書かずにいたが、今回だけは書いておく。事前に元ネタを観ている場合も別に書かない。と合わせて書いておく)。



縦横のシーン移動によって劇的なる場面の切り替えをある場面では選択し、さらに前後のシーンの音がほとんど繋がっている。鳴っている音から、かかっている音楽まで全てが何かと繋がっている。この連結はセックスであり、半魚人とだってセックスできるのだから、場面同士だってセックスが出来るというわけである。それだけ音が繋がるのは、耳の聴こえない女性と半魚人の会話が手話だからであり、メインのふたり以外の全てが、音によってメインのふたりを助けている。音がふたりの心象表現を助けるために鳴っているのである。ミュージカルは歌や踊りという音の表現で(つまり音楽で)説明する。だからこの映画だって立派なミュージカルである。そして、音によって助けられるという最初に述べた可憐なミュージカルとなるのである。

「加えてふたつ」

「笑い」
この映画には、笑える場面が多々あるが、意図して笑わそうとする場面では大抵スベっており、そこで笑うのは、どこでも笑う人である。意図して笑わそうとする場面とは別に、笑ってしまう場所がある(あり得ないように美しいミュージカルシーンではない。劇場でもいたが、あそこで笑うのはニヒル気取りの人であり、もはやニヒルであることがニヒルではない現代においてはただのイキリに見える。笑)それは半魚人の泳ぎの初動だ。あれはまさしくアスリートの動きで、オリンピックの水泳競技に見慣れた日本人からすれば、爆笑ものである。

マイケル・シャノン
トイレの前に洗った手でキャンディを取って舐める。「用を足す前と後の2回手を洗うのは臆病者だ」と前半も前半で言うが、この時からオブセッションオブセッションしている。それが半魚人という形で現れただけで、彼は特別ではなく、皆が彼のようになる可能性を持っている。そして、彼は前半で述べた音の繋がりの媒体として度々登場しており、彼がいないと同期しないし、彼がミュージカルの遠い部分で同期しているため、1番歌い出しそうなアフロアメリカンのふくよかな女性が全く歌わずミュージカル(前述:音で助ける)にも絡ませないという「気づいたことが差別」とでもいえるような落とし穴を、最もレイシストな人物で覆い隠している。f:id:sumogurishun:20180303011251j:plain

建築よりジャズやんか『ミース・ファン・デル・ローエ』


建築家ミース・ファン・デル・ローエのドキュメンタリーなのだが、彼はそれほど登場せず、肉声はほとんど聞くことが出来ない。何が聞けるのか。ramachandra borcar の音楽である。
この音楽、彼のオリジナルスコアのジャズに酔いしれて、というよりかはあまりにも良すぎて混乱しているうちに、アートにラリった編集が噛んだ軽妙洒脱で緻密なミースのガラスボックスに心を引き裂かれるドキュメンタリーになってしまっている。彼の有名な言葉、「less is more.」がほとんど語られることなく進み、ヤバいガソリンスタンドや、ヤバいガラスのビルが編集や撮影チームの腕により、めちゃくちゃにアーティスティックに映し出され、ああこれはヤバい…と思っているうちに、60分に満たないこのドキュメンタリーは終わる。そして、音楽はあまりにもマッチしている。もはやミースの名とビデオを借りたアートビデオであり、これの合間に所縁のある人物や評論家のインタビューがあり、ミースの建造物で働く人々の「建築には門外漢だが機能的だ」というアピールがある。ミースの理念は彼らを通してしか知ることが出来ないが、彼の建物の「良さ」や「美しさ」はこのドキュメンタリーを通して知ることが出来る。自身を芸術家だとは言わなかったミースに対して、彼は芸術家だと定義付けるドキュメンタリーなのである。




曝け出すことによって、隠している『デヴィッド・リンチ アートライフ』


デヴィッド・リンチ アートライフ』

リンチはこの映画で、本音というよりかは無意識的に作品のミスリードを誘っている。あからさまなドメスティックに、自身の過去の体験に答えが隠されているとでもいうかのように語り、監督によって編集され、観た者によって解釈されていく。それはある部分では答えになりうるが、ある場面では答えになり得ない。つまり、彼がこうだから作品(や登場人物)はこうなんだ。という作者の親族がするような読み解きしか出来なくなってしまう。ただでさえリンチは、作品に文字を書き込むことによって作品の本質を隠し、その向きでの読み解きに制限する。ミスリードを誘っている。そして今回の『アートライフ』は彼のアートライフと生い立ち、環境により、彼の作品の読み解きをその方面のみに制限しようとしている。パーソナルな部分は、作者の本質には近いが、作品の本質となると別である。なぜなら、映画は1人で作っているわけではないからである。様々な要因が重なり(例えばスタッフが違えば作品の内容も違ってくる)、映画となっているのに、リンチのパーソナルな部分で作品を決めつけるのは、危険である。そして、映画の答えを探すことは読み解くことではなく、自身の納得にしか繋がらない。f:id:sumogurishun:20180227194118j:plain

『BG〜身辺警護人』は『セーラー服と機関銃』なのか。それとも『太陽にほえろ』なのか

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集合写真が静止画で出た瞬間に気付いた人も多いと思う。


これからBGが各話で1人ずつ死んでいく。なんでこんなにキムタクと江口の対比を描くのかと思っていたし、まだ民間である事の弱さが一切描かれていないこともある。全ては最終話までのこの流れのためだった。まずはキムタク(もしくは元妻)を庇い斎藤工が死ぬだろう。6話で斎藤工が見せた菜々緒への笑顔、時折出す茶目っ気、裏がありそうで1番裏がないキャラ、斎藤工が求める役柄、全てが揃っている。いくらでも広げられるが故、停滞へ向かう物語を加速させる潤滑油となるのが死であるのは全ての創作物が象徴しているし、もうこのキャラを広げられる要素は殉職しか残っていない。

太陽にほえろ的殉職が最終話に向かって毎週続くエゲツないスタイルで一世を風靡したドラマ『セーラー服と機関銃』これを踏襲し、民間である意味を狂気が正気になる演技でキムタクが新境地を拓くだろう。新たなるキムタクドラマは味方を殺してキムタクを生かす、活かしてイカす。

これはもはや予想ですらなく祈りである。外れたら最大に馬鹿にしていただいて結構だが、セーラー服と機関銃スタイルだった場合は、組長と会わせてほしい。

「ちなみにね、あのね」

静止画が出た瞬間にセーラー服と機関銃スタイルだと気付いたが、その後の予告で山口智子が死ぬもしくはキムタクが重症とミスリードを誘うつもりだ!と勘繰ったが、案外衝撃の別れと書かれてあるのでそうでもないのかもしれない。おもいっきり斎藤工を殉職させるだろう。

「ただ1番ヤバいのは」

キムタクが殉職し、全てに伏線を置き去りにしたまま新たな主演の登場である。マカロニの次のジーパンである。七曲署である。笑 斎藤工の死こそがミスリードで、太陽にほえろスタイルへと向かう。斎藤工は、その男とまたキムタクと似たような関係を結び、江口洋介とは共闘するだろう。それは誰か、小栗旬である。笑 キムタクの次として申し分なく、太陽に吠えろ的な年齢差を考えてもしっくりくる。最終話で見せる小栗旬の「なんじゃこりゃあ」に代わる名芝居に期待せざるをえない。

「再び書くが」
これは予想ではなく祈りである。外れたら最大に馬鹿にしていただいて結構だが、太陽にほえろスタイルだった場合は、マカロニのような服がほしい。





Kをめぐるとある仮説『ブレードランナー2049』

f:id:sumogurishun:20180222012918j:plain2017年10月24-28日の日記から抜粋。加筆修正なし。勢いそのまま。


ブレードランナー 2049

前作に心酔している人や、前作が好きな映画評論家の意見を信仰している人は受け入れられない内容だろう。今年何回も言うが、今年公開された映画で一番良かったと鑑賞直後に思ってしまう。笑 前作ではひとりも登場人物が魅力的ではなかったが、今作は登場人物がすべて魅力的(ララランドの伊達男ライアン・ゴズリングが空飛ぶ車から降りてきた時は爆笑した)で、やはりドゥニ・ヴィルヌーヴもここが最もテコ入れしなければいけない点だとわかっていたのだなと。笑 前作が意外にもリアルな近未来だったのに対し、今作は、まあこうなってもおかしくないよなってくらいの近未来。リドリースコット作品の気味が悪いほどの日本観(前作やブラックレインに顕著)もドゥニのおかげで良い塩梅に落ち着き、愛国心の強い者は裏切られたと感じるかもしれない。笑 とにかく監督がドゥニ・ヴェルヌーヴになったことにより前作のキモい信者どもを一掃し、新たなセンスある人々をファンとして迎え入れることに成功したブレードランナーの未来は明るい。ちなみにこの意見を全て反転すると、内容を語らず前作信仰の立場を取ることができるので、ぜひどちらの方もテンプレに使っていただきたい。


「抜粋で済まそうと思いましたが、ここは登場させていただきましょう。今の素潜り旬が」


自分が何者であるか を探し求める場合、今の自分を蔑ろにしている状態というのは、興奮状態にあり、アドレナリンが出ており「いけるところまでは、いく」という状態である。しかし、Kの場合は途中でその状態が切れてしまう。レプリカントであるからこそ、そのまま行動出来るのか、人間だからこそ、諦め、つまり「やれるところまではやろう」に切り替えられたのか。答えは分かれるだろうが、俺の答えはこうである。


「Kは動物だ」


2046年には羊が自然からそのまま産まれてしまうという奇跡が何度か起きており、それは女性のフラッシュバック現象に起因するものだった。(平行世界の)オリヴァー・サックスが幻覚として、片目の失明した部分に視えてしまう光をブレードランナーと名付けたが、実際は高速で移動する羊であったという。それから3年後、三菱自動車で現れたKの座席には羊毛がびっしり付いていた。