半魚人と耳が聴こえない女性の可憐なミュージカル『シェイプ・オブ・ウォーター』


シェイプ・オブ・ウォーター

「半魚人と耳が聴こえない女性による可憐なミュージカル」
と俺は考えるのだが、ど直球のミュージカルシーンは置いといて、どこがこの映画をミュージカルたらしめるのか、を論じていこうと思う。ちなみに元ネタになった映画や、近い映画をひっぱりだしてきてわかりやすくしたり、それで文字数を稼ぐような記事はあまり好きではないので、今回はしない。正直、ある映画を語るにはこの映画とかけて語らなくてはならない的な批評が多すぎて俺は別にそういうのしなくていいかなと。何かを何かに似せているのは、作者だけではなく観衆である。だから『アマゾンの半魚人』やデルトロの過去作はこれを書いてから観ようと思う(というのを毎回書くのもしんどいので、今までは書かずにいたが、今回だけは書いておく。事前に元ネタを観ている場合も別に書かない。と合わせて書いておく)。



縦横のシーン移動によって劇的なる場面の切り替えをある場面では選択し、さらに前後のシーンの音がほとんど繋がっている。鳴っている音から、かかっている音楽まで全てが何かと繋がっている。この連結はセックスであり、半魚人とだってセックスできるのだから、場面同士だってセックスが出来るというわけである。それだけ音が繋がるのは、耳の聴こえない女性と半魚人の会話が手話だからであり、メインのふたり以外の全てが、音によってメインのふたりを助けている。音がふたりの心象表現を助けるために鳴っているのである。ミュージカルは歌や踊りという音の表現で(つまり音楽で)説明する。だからこの映画だって立派なミュージカルである。そして、音によって助けられるという最初に述べた可憐なミュージカルとなるのである。

「加えてふたつ」

「笑い」
この映画には、笑える場面が多々あるが、意図して笑わそうとする場面では大抵スベっており、そこで笑うのは、どこでも笑う人である。意図して笑わそうとする場面とは別に、笑ってしまう場所がある(あり得ないように美しいミュージカルシーンではない。劇場でもいたが、あそこで笑うのはニヒル気取りの人であり、もはやニヒルであることがニヒルではない現代においてはただのイキリに見える。笑)それは半魚人の泳ぎの初動だ。あれはまさしくアスリートの動きで、オリンピックの水泳競技に見慣れた日本人からすれば、爆笑ものである。

マイケル・シャノン
トイレの前に洗った手でキャンディを取って舐める。「用を足す前と後の2回手を洗うのは臆病者だ」と前半も前半で言うが、この時からオブセッションオブセッションしている。それが半魚人という形で現れただけで、彼は特別ではなく、皆が彼のようになる可能性を持っている。そして、彼は前半で述べた音の繋がりの媒体として度々登場しており、彼がいないと同期しないし、彼がミュージカルの遠い部分で同期しているため、1番歌い出しそうなアフロアメリカンのふくよかな女性が全く歌わずミュージカル(前述:音で助ける)にも絡ませないという「気づいたことが差別」とでもいえるような落とし穴を、最もレイシストな人物で覆い隠している。f:id:sumogurishun:20180303011251j:plain