『花様年華』は夢二の匂いの夢で逢えたら


花様年華

一線を越えたかどうかを明らかにしない。ただ花のように匂わせるだけ。

花は魅せることによって単純な美しさを表現することが簡単に出来るが、匂わせることは感じさせることである。花の良さは見ただけでもわかるが、匂いを感じることで味わいが変わる。

一線を越えたのを匂わせた先にある匂いを感じる。ここにともすれば流し見で終わってしまうこの映画を愉しむ術がある。

素潜り旬「加えて」

花が部屋にあるだけで心が豊かになるか、もしくは気が滅入ってしまうという、花が心の在り様を決めるという状態を女性に置き換えた(もしくはその逆、女性を花に置き換えた、もしくは花を男性に置き換えた)場合、その匂いは嗅ぐ人の状態に委ねられるという一種の倒錯めいたものが現れるが、その倒錯をあなたが良しとしないならば、匂い自体を花から香水に置き換え、トップノートからラストノートまでの匂いの変化のように、このふたりが漂わせる匂いを全編を通して(あるいは鑑賞前か後に至るまで)、味わえばよい。

素潜り旬「実は…」

この匂い、『夢二のテーマ』によって耳でも味わうことができる。この鈴木清順監督『夢二』の為に作曲された『夢二のテーマ』が劇中、何度も流れるが、流れるタイミングによって聴こえ方が変わってくる。鈴木清順の『夢二』とも違った意味合いで流れるのに、さらに劇中で使い分けられるこの曲は、この映画の「匂い」そのものともいえるだろう。

素潜り旬「そして実態のない匂いは」
夢と同一化してしまいもできるだろう。夢に匂いはあるのか、ないのか、人それぞれだが、痛みや感覚はある、というのは多いのではなかろうか。掴めないが、感じるもの。味わったが、実際には体験していないこと。これはまさしく映画そのものだ。つまり、映画のストーリーを夢なのかどうなのかと捉えるのではなく、映画の内容を映画と捉えること。ここにある種のリアリズムが生まれ『花様年華』を匂いとして可視化してしまえるという夢を見れるのである。






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