痛みによって、ひたすらに観衆を乗せない『蒲田行進曲』

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痛みによって、ひたすらに観衆を乗せない『蒲田行進曲

深作のリズム感悪さは、徹底的に登場人物を這わすことによって、セリフの抑揚を強調させるに至り、それが大味な演技と絶妙に合っている。この映画には印象に残る二曲の音楽が流れるが、一曲は萩原健一なら柳ジョージに歌わせていたような曲だからアレだが、もう一曲はテーマ曲で、踊りが入ってもおかしくない。それを踊らせないばかりか、映画全編を通じて、全くリズムに乗らせない。これにより現代のリズム感ある人(昭和よりも平成の方がリズム感があるのは、日本の音楽史を振り返れば明らかで、昔は「タメ」や「間」が重要視されていたが、いまやスムースに動くことが重要とされる。実は、この差がスター銀ちゃんと大部屋男ヤスの違いである。銀ちゃんは間がたっぷりでいかにもな過去の人だが、ヤスはものすごいステップで仕事をこなしている。しかしそのステップは怪我をすることによってリズム感の一切を失っているが、怪我をすることに関して言えばリズムに乗っていると思えるが、実は怪我をすることが規則的で、決まりになっている。決まりは従うことであり、これはリズムに乗っているわけではない)は、映画に乗ることができない。しかしこの映画はリズムに乗ることの代わりに疼くような痛みがある。その痛みは蓄積され、最後の全部劇中劇中劇でした。というどんでん返しとは全く言えないブツ切り(リズムに乗るどころか全ての線を断ち切る)によって、この痛みはなかったことにされる。急に痛みが取れるこの感覚が人々が夢見る魔法による治療法であり、創作の喜びである。