『愛しのアイリーン』のモザイク考


愛しのアイリーン

誰も救えない声が聞こえる。それ自体が救いじゃないか。決してハッピーエンドではないが、登場人物は最終的に救いを得ている。この劇(的なるもの)からの退場は死ではない。表面上は死なのだが、実際に退場しているのは救われなかった者たち。愛されなかった者たちである。

「淫りつ」
久々に邦画で純粋なモザイクを観たが『シェイプオブウォーター』の時のように「モザイクなんていらねえよ。みてえみてえ」とならなかったのは、あまりに馬鹿馬鹿しいモザイクだからだろう。モザイクは笑いの膜へと変わり、隠さなければならないはずの性器は、隠れていてほしいものへと変わる。見えてほしいものが隠れてほしいものへと変わる。しかし、検閲側が隠れていてほしいものだった性器が、観客が隠れていてほしいものへと変わる。これはかなり現代的な性表現ではなかろうか。近現代の性表現は全てを見せることで評価を受けていることからも、このモザイクの新しさがあるが、実は隠すべきところやセクシーシーンはこの映画に多々存在し、モロに出ているところだけをモザイクにしている。「遂に来たよ!」という期待からくる興奮と「やっぱりね」という諦め、そして現代劇の野外シーンにアダルトヴィデオばりのモザイクという異化効果。計算された性表現を映画で観れることこそ、現代アートと呼ぶべきだ。そしてこの性表現をモザイクアートと呼ぼう。笑

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