ハンソロのシーザーに万歳(俺のようなSW初心者のアンタのために)

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ハン・ソロ

SWは『最後のジェダイ』しか観ていないし予習もしていないため、ハンソロもチューバッカ(前作では動かないぬいぐるみが出演していたくらいにしか)も何者か分からないまま見始めた男(素潜り旬)は、ジジくせえハリソンフォードよりも『ヘイル・シーザー』のとっぽい西部スターオールデン君の方がかっこいいんじゃないかなどとジジくせえファンにキレられるようなことが観ながら頭から離れずにいた。ブレードランナーもジジくせえハリソンフォードよりもラララ兄ちゃんの方が明らかに格好良いじゃないですか。ハリソンフォードは譲れる俳優なのかもしれない。譲れない俳優つったらマット・デイモンとかじゃないですか。笑

というかもう『ヘイル・シーザー』の立ち振舞いまんまでハンソロ役を射止めたと言っても過言ではないオールデンくんが、ハリソンフォードに似てるかといえば似てる。そこがこの映画を面白くさせる一因となっているのではなかろうか。とっぽい兄ちゃんが若き日のハンソロ射止めてる(『ヘイル・シーザー』は劇中劇から劇中劇中劇までやりきるミュージカル)!なんて喜びを感じ、もしかしたらチューバッカもこんな風に思っているのかもしれない。


「内容は無いよ」
新たな事実を付け加えることが過去作の喜びだと俺は思うのだが、製作陣はそうではないのだろうか。推測でしかないが、今まで語られていなかったことの説明や理由付けに終始し、それ以外は西部劇かギャンブル。というファンからすれば、ジジイの蛇足でしかないと思うんですけど、どうなんですか。そうですよね?それともやっぱりこういうのはファンは嬉しいものなんですか?俺がSWオタクなら、新たな事実を付け加えまくって、これが今のSWのヤバさですつってドーンとフォースのために?やって貰った方が面白いと思うんですけどねー。俺はオールデンくんのとっぽさが見れたらいいんですけどねー。あとチャイルディッシュガンビーノの軽薄さですねー。ディスイズアメリカなんて言っちゃうくらいですからねー。いやー。笑 これはアメリカではないとか言ってアジア人へのディープスロート的なものやってくれたらよかったのに。そしたら俺は一切を信じる。なんて俺の話は良いですね。SWについてもひとつだけ。『最後のジェダイ』で震えたオープニングロールが、スピンオフにはないんですか?あれを一番楽しみにしていたのに。

くだらないことばかり書いていて忘れていたが、この映画には俺の好きな三要素が入っており、これがあるだけで合格なので、好みを持ち込んでしまうが、これさえあればだいたい文句なしである。バディものであること(ハンソロは特殊なバディもので、ペアを入れ替えたり、すべての登場人物がペアで行動する。)、しょぼい銃で撃ちまくること(西部劇というよりもはや日本のヤクザ映画である)。AIとの恋愛(ラブストーリーとして定番化してきているが、まだ充分楽しめる)である。好みだなんだって書いたが、この要素があるだけでSWを知らなくても、いまの映画として楽しめるんじゃないか。俺みたいに全然SWを知らない人にも見てほしい。そして話したい。俺だけだなんてつまらないじゃないか。






『菊とギロチン』で踊り狂え


人間が踊り狂うのを見るのが好きだが、そんな場面に出くわすことなど、そうない。クラブでトランス状態に入った奴を屋内で見たことがないし(ヤバイ奴はだいたい外で音漏れを聴きながらイかれてる)、俺が見たのは野外レイヴパーティーだし。周りの景色がほとんど変わらずに朝日を迎えた経験があるし。やっぱり外に限る。これを映画で表現しているのが『菊とギロチン』だ。すべては野外にある。中に居てちゃあ本物の感覚を味わえない。


ただ、中にいるのにトランスできる要素が1つある。それは汗だ。汗のにおい、汗ばんだ肌の触れ合い。人を刺激するのは体液である。これを映画で表現しているのが『菊とギロチン』だ。相撲は見るのもやるのも気持ちが良い。

というより、音に反応して身体が動いていないか?そりゃそうだ。民族音楽はトランスするためにあるし、それはひとりでもみんなでも構わない。これを映画で表現しているのが『菊とギロチン』だ。いつだって肝心な時に男はふたり女はひとり。まずは行動ありき。おとに合わせりゃ都合良いじゃないか。

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映画的殺しの新境地『ビューティフル・デイ』


ビューティフル・デイ

原題は『You Were Never Really Here 』だが日本や他国では『ビューティフル・デイ』と名付けられている。映画を広めるために英語を英語で直すのは、気持ち悪いことだと思う。「この邦題をつけた人は神」だとか色々な意見があったが、考えたのは日本人ではないだろう。英語圏の国の宣伝マンが英語タイトルをわかりやすいタイトルに直す。こんなことがあっていいのだろうかとも思うが、原題の良さが比較され分かるのならいいのかもしれない。

ミッキーマウスと蒸気船」
ミッキーマウシングスレスレのジョニー・グリーンウッドの音楽は、もはや劇伴かすらもわからないほど自然に不穏が鳴っている。ホアキンと同期するというよりかは、画と同期している。常に既に巻き込まれているホアキンと同期するには、先に音が鳴っていないといけないが、現在の時間軸にホアキンがいないために、未来や過去の画とジョニグリの音楽は同期しないとならない。それをやってのけたために、奇妙なミッキーマウシングが起こっている。


「映画的殺しの新境地」
だろう。ホアキンの演技、リン・ラムジーと撮影スタッフによるこの殺しの見せ方は。屋外ではホアキンとの何かを間に挟むことによって、現実との境界を作っているが、殺しが行なわれる屋内では、この境界は取っ払われる。つまりは殺し自身があいまいなものとして表現されている。実際に殺しが行われる瞬間が描かれていないのもそのためである。だからこそ現在の時間軸にいないホアキンが常に既に巻き込まれながらも、先に見せるのが未来という編集が画が新しく見えるのだろう。


「半魚人よりも」
このブログの「映画を論じる際に別の映画の名を出さない」というルールを少しだけ破るが、水中シーンの美しさは『シェイプ・オブ・ウォーター』に勝るだろう。ネタバレを避けるためにこれ以上は伏せておくが、(三十四字伏せ字)の美しさに震えが止まらなかった。



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『長江 愛の詩』なぜ詩でおまえを語るのか


長江 愛の詩


「詩以外は全て良い」
長江を舞台にしたこの映画の主人公は、手に負えないほどの自然があるのに、書くのは自分のことばかり。現代の詩を書く人(今回の場合は監督)はなぜみんなこうなのかが不思議でならない。みんな自分のことばかり。自分のそばのことばかり。おまえがここにいるのはわかっているから、頼むから詩を書いてくれ。おまえの言葉で詩を掬いあげてくれ。詩でおまえを語るのはやめてくれ。

「だからこそ名撮影監督リー・ピンビンのヤバさが際立つ」
天才は自然に勝つ場合もある。笑 雄大な自然を前にしても慄くことなく実際の長江より美しく撮り、現代の「リアルこそ全て」「俺の正しさの前では嘘は全て無効」というクソストリート精神を持つもの全員を黙らせることができる彼の画は唯々自信に満ち溢れている。あえて自信のないショボショボの詩と対比させることで、画面に映らない自然の強さ(長江の圧倒的強度)を観客に感じさせようとしているのかもしれない。

「内容はもう監督がネタバレ混みで全部インタビューで言っちゃってるけれど。笑」
話はいたってシンプルで、主人公の男の船は長江の上流へ向かい、女性はその先々で待ち受けるも、上流へ行けば行くほど若返っている。しかし、女性は男を追っているので記憶は男性と同じ軸にある。つまり女性は長江の流れそのもので、長江の流れは時間の流れである。それに反して男性が見てゆくのは、修行僧になれなかった女性が無垢な少女に戻っていく過程だった(その女性が現れる場所は男が船で見つけた詩に描かれた場所で〜この先はもう野暮だからやめよう。ちなみに終盤からオチにかけては芸術的だがしょぼい。笑。そりゃこのオチしかねえよなと思う。笑)。

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ハイタッチしないこと『レディプレイヤーワン』

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ハイタッチは喜びを確認し合うことの表面化である。「俺は今のすっごいよかったよ!おまえも?」「うん!」
これをアクションで示すのがハイタッチである。実際の感情が見えないこと、見せないことがバーチャル世界の良さなのに、それをいちいち確認してしまう。それが主人公の甘さである。しかし、ハイタッチに応じないことも、感情を見せてしまっている。実はこの主人公、やり手である。現実と非現実の見境がないように見せておいて、理解している。相手の感情を知る手がかりは、その相手が関わるものすべてにあることを。そして、彼はさらに分かっている。感情なんて不確かなものは見様によって変わることを。


不確かなものを確かにするには、確かだと思い込むことだ。確かなものが実際に確かだなんて学者にしかわからない。しかし学者にわからないことがわかることだって生きていればたくさんある。どうしてか。そうだとわかるから。経験から?感覚から?計算して?思い込む。


「もしかしてこれって!」
そう、レディプレイヤーワンの世界である。思い込んだことは実現する世界「オウェイシス」でハイタッチできると思い込むことが成功の鍵であった。

ふたりでタンゴを踊るなら単語なんていらない『ブエノスアイレス』


ブエノスアイレス


「やり直す」とは、何をやり直すのか。わからないまま言っているふたりは、何もやり直すこともないまま、新しく始まることもないまま、旅立ったり、同じ場所にいたりする。ひとりは新しい出会いを断ち切ってまでも過去を引きずり、ひとりは過去をはじめから引きずり続けている。ふたりは常に既に過去を引きずっているにも関わらず、やり直すと言いながらも何を「やり直す」のか、何が「やり直す」なのか、わからないまま現在を過去にしながら引きずっている。その証拠に、ひとりは「もし会おうと思うなら、どこだって会える」と立ち寄った屋台に置いてあったもうひとりの写真を見て言うのだ。

素潜り旬「ふたりでタンゴを踊るなら」
単語なんていらない。笑 と洒落で終わらせるのもあれだが、文字通り言葉なんていらないシーンだ。つまり「やり直す」だなんて言う必要もないのに、言ってしまうから関係は悪化するのだ。やり直し方は分かっているのに、言葉にした時の返し方がわからないようだ。このもどかしさが互いの嫉妬となり、失いたくないのに失ってしまう方へと進んでしまう。ふたりの無軌道なタンゴのように。


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『花様年華』は夢二の匂いの夢で逢えたら


花様年華

一線を越えたかどうかを明らかにしない。ただ花のように匂わせるだけ。

花は魅せることによって単純な美しさを表現することが簡単に出来るが、匂わせることは感じさせることである。花の良さは見ただけでもわかるが、匂いを感じることで味わいが変わる。

一線を越えたのを匂わせた先にある匂いを感じる。ここにともすれば流し見で終わってしまうこの映画を愉しむ術がある。

素潜り旬「加えて」

花が部屋にあるだけで心が豊かになるか、もしくは気が滅入ってしまうという、花が心の在り様を決めるという状態を女性に置き換えた(もしくはその逆、女性を花に置き換えた、もしくは花を男性に置き換えた)場合、その匂いは嗅ぐ人の状態に委ねられるという一種の倒錯めいたものが現れるが、その倒錯をあなたが良しとしないならば、匂い自体を花から香水に置き換え、トップノートからラストノートまでの匂いの変化のように、このふたりが漂わせる匂いを全編を通して(あるいは鑑賞前か後に至るまで)、味わえばよい。

素潜り旬「実は…」

この匂い、『夢二のテーマ』によって耳でも味わうことができる。この鈴木清順監督『夢二』の為に作曲された『夢二のテーマ』が劇中、何度も流れるが、流れるタイミングによって聴こえ方が変わってくる。鈴木清順の『夢二』とも違った意味合いで流れるのに、さらに劇中で使い分けられるこの曲は、この映画の「匂い」そのものともいえるだろう。

素潜り旬「そして実態のない匂いは」
夢と同一化してしまいもできるだろう。夢に匂いはあるのか、ないのか、人それぞれだが、痛みや感覚はある、というのは多いのではなかろうか。掴めないが、感じるもの。味わったが、実際には体験していないこと。これはまさしく映画そのものだ。つまり、映画のストーリーを夢なのかどうなのかと捉えるのではなく、映画の内容を映画と捉えること。ここにある種のリアリズムが生まれ『花様年華』を匂いとして可視化してしまえるという夢を見れるのである。






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